企救
  聞 − 企救
   元明女帝の『郡郷名二字使用例』による
古代の北九州を詠んだ7首
  豊国の 聞の浜辺の 愛こづち 真直しあれば 何か嘆かむ       詠み人知らず
  豊国の 聞の高浜 高々に 君待つ夜らは さ夜ふけにけり       詠み人知らず
  豊国の 聞の浜松 根もころに いつしか妹に 相云い初めけむ     詠み人知らず
  豊国の 聞の長松 行きくらし 日の暮れぬれば 妹をしぞ思う     詠み人知らず
  豊国の 企救の池なる 菱のうれを 摘むとや妹の み袖濡れけむ   詠み人知らず
  大君の 遠の朝廷と 蟻通り 嶋門を見れば 神代し思ほゆ       柿本人麻呂
  早鞆の 瀬戸の岩も 鮎走る 吉野の滝に 及ばざりけり         大伴旅人
彦島
  引島 − 彦島
 創世記神話
   仲哀天皇の皇后(神功)が、神通力を大いに発揮して、穴戸の土塊を劈開し、
   それを長門国の西の海に引いて行って、関門海峡が出来た。
   新しく出来た島を引島 土塊を引っ張っていく途中で、
                   その一部がこぼれて出来た小島を舟島(巌流島)
長浜=高浜 =小倉城下〜大里
  文字どうり長々と続いたので長浜  かなり高い砂丘だったので高浜
小倉
  企救浦−キクラ − コクラ−小倉
  コクラ = 地形的には小高い台地や岩山に囲まれた小さい谷
      往古の小倉の地形はもっと南の方まで海が入り込んでいたらしく 富野から紫川河口
      にかけて砂州が出来、さらに湾が湖水となり、これを当時の人々は企救の池と呼んだ。
関門の地名の由来    参考文献 『関門海峡』 古川薫著 1993
                                   小倉郷土史学 小倉郷土会 1982
                                   門司と小倉の歴史から九州が分かる本
                                             田郷和雄著
(本ページは大変簡略に記載してあり正確性に欠ける所があます。ご興味を持たれた方は、参考文献にて確認下さい) 

     

大里
  内裏 − 大里
  源平の壇の浦の戦いの際、門司柳ケ浦に行在所をしつらえた事による。
下関(馬関:異称)
  山口の瀬戸内海側沿岸に、西から3つの関があった。
   下関 = 現下関市 = 長門国赤間関
   中関 = 防府市
   上関 = 熊毛郡上関町
壇の浦
  団浦=海峡を護る軍団が基地を置いた浦
  幕末までは、現在の壇の浦より東に1Kmの茶臼山の麓辺りであった。
  長州藩が攘夷戦に備えて砲台を築いた為、漁師達を移住させた。
長府
  宍戸国豊浦−長門国府−長府
長門国(山口西部)
  宍戸(門)=関門海峡 − アナト−アナノト−アナガト−ナガト− 長門(山口県西部を指す)
関門海峡 = 宍戸(門)
 創世記神話
  ・上代には此処長門と豊前とつづきたる山にて、その下に洞ありて、東西通り潮の通う
   道ありて、船も往来しらむ故、穴戸とは云うなるべし。(本居宣長『古事記伝』より)
    幅    最も狭い所 0.65Km(下関市御裳川〜門司和布刈=早鞆の瀬戸)
    全長   約27.8Km(部埼〜六連島)
    流速   最大 9.4ノット